特別対談~震災復興 そして未来に伝えるメッセージ~
松井 市長としての2期8年を振り返りまして、特に印象に残っていることを教えて頂けますか?
奥山 8年間のうちの6年間が、震災とその後の復興への期間ということになりますので、やはり震災に関連する出来事は大きな印象に残っています。震災で1,000名近くの仙台市民が亡くなられたということ、これは第2次世界大戦末期の仙台空襲の被害者に匹敵するような人数です。首長というのは市民の生命と財産を守るということが仕事の根幹でありますので、戦争以外の自然災害によってこれだけ多くの市民の命が失われたということは、大変申し訳なく思っていますし、自分としても一番心が痛む出来事であったと思っています。
松井 震災によって今まで見えなかったものが見えてきたり、本来仙台が持っている力みたいなものを感じる場面があったと思いますが、市長はどのように感じられましたか?
〜震災で見えた仙台のポテンシャル〜
奥山 私がいま強く思っているのは、震災があったからこそ発揮された普段は隠れていた底力みたいなものといいますか、仙台の町の新しいポテンシャルを大変強く感じることができたということは、震災があったからこそだという気持ちがしております。これを平時にも同じ事を100%やれるとは思いませんが、3分の1だけでもみんながそれぞれ力を出せば、以前の仙台よりもはるかに高いレベルで活動できるなと思いました。
松井 震災時は想定外の出来事の連続であり、人口の約1割の方が避難所に入っているなか、本来であればもっと混乱を招いてもおかしくない状況でした。勿論仙台市の職員の方々のご尽力もありましたが、手が行き届かない箇所が沢山あったと思います。そのような避難所においても、避難されている方々が自主的に助け合う光景を何度も目にしました。そういった取り組みや行動というのは震災で急に生まれた訳ではなく、震災前からの仙台市の取り組みの成果ではないかと改めて感じております。
奥山 宮城県沖地震が来ると言われていたことは大きいのかなと思っていて、町内会でも避難所の運営とか、あとは地震保険に加入している方の割合が高かったですし、いろいろな意味で宮城県沖地震に備えていたということが、あれだけの被害があったにもかかわらず、まだしも混乱が少なかったことにつながったのかと思います。人間は本当に想定外のものに対しては弱いので、少しでも想定しているとそこをよりどころに、耐えることができると思います。
松井 あの震災当時の心構えを四六時中持ち続けることは難しいとは思いますが、思い出すきっかけを作ったり、決して記憶から忘れることのないようにするためには今後どのような取り組みが必要でしょうか。
奥山 風化させずやる気を高めるように例えば3.11には必ずこれをやろうというような形で、防災訓練などを通じて実際に体を動かすこともよいことだと思います。きっちりとそういうことを次の世代の人たちにも、伝えることが大事なことであると思います。
〜震災を未来に伝える〜
松井 震災から6年が過ぎましたが、私たち青年会議所の中でも震災から節目と言われている5年が経過し、3.11に関することは区切りを付けても良いのでは?という声も上がりました。しかし、私は1年に1回でも震災を思い出す場面を作るということは私たちの使命だと思っています。これまで震災関連の事業を行っていた団体も年を追うごとに徐々に少なくなっていく現状も鑑みると、やはり継続していきたいと考えています。また、今後は震災を経験していない子どもたちが増えていきますので、その子たちにどうやって震災を教えていくのかが大事になってくると思います。
奥山 そういう意味では、荒浜小学校が震災遺構として今年の4月30日にオープンしましたが、被災した現地に近いところでその当時のフィルムや資料を見ながら、現地の人が語ってくれている話を聞くというは現実に近いことを学べる場になると思っています。仙台は交通の便利なところにありますから、そういう良さというのはもっと活かして世界中の人に現地に来てもらって発信するということを続けていければよいと思います。
松井 在任期間中は国際会議の開催、誘致にご尽力されましたが、やはり震災を経験した都市として防災や減災に対することを世界に発信する責任があると思い、誘致されていたのでしょうか。
奥山 そうですね。一つは仙台が被災地で唯一の100万人を超える大規模都市であるがゆえに様々な現象が起きました。例えば帰宅難民など都市型の課題が沿岸の津波の被害とは別に発生しましたので、そういうものをトータルで世界に発信できるという立場にあるので、それはやはり我々の責務として国際的に発信していく必要があると思います。一方で、これからの人口減少社会の中で、震災のPRにもなって交流人口の増加にもつながるような大規模な知名度の高い国際会議を行いたいと思っていた所に、政府が第3回国連防災世界会議の開催を日本でやると手を挙げ、日本でやるという政府の気持ちがあるなら、是非我々にやらせてほしいと、地元の国会議員にも応援していただき、実現したことはありがたいことだったなと思います。
〜東北の魅力を仙台から世界へ〜
松井 近年は東北全体でインバウンド増加に力を入れていますが、私たち仙台青年会議所も本年度インバウンドをテーマの一つに掲げて活動をしています。しかし、ただ「仙台は魅力があるから来てください」といってもなかなか観光客の増加は難しいと思っています。インバウンドを考える際はアウトバウンドの取り組みも必須だと思いますし、我々も積極的に海外に出向かないといけません。昨今は海外に行きやすくなっていますし、まちとしても大きなチャンスを迎えているのは明らかです。未来を担うお互いの若者同士がお互いに行き来して、お互いの国の良さを発見し、自国に持ち帰って自分の地域の発展に尽くすことが出来れば未来に続く交流になるでしょうし、やがて交流人口の増加にも繋がっていくのではと思います。
奥山 仙台空港の国際便はアジア圏が中心になると思います。アジアも多様性が出て来ているので、もっと気軽に旅の行き先として東北に住んでいる人間も、もっと意識をもって行く必要があると感じます。東北の人はまだパスポートを持っている人の割合も少ないらしいので、ぜひ青年会議所の皆さんで一大キャンペーンをやっていただいて、みんなでパスポートを持とう運動から始めていただきたいですね。
松井 仙台に来て欲しいという気持ちも勿論ありますが、私たちは東北の玄関口となっている都市として、もっと広い視野で、仙台だけでなく東北に足を運んでもらうという考え方も必要なのではと思います。
奥山 その通りだと思います。仙台の東北における位置付けの一番大きなものはゲートウェイです。東北の魅力は多様で、温泉もあれば、歴史もあれば、日本文化、民俗芸能などなんでもありますから、そういうものを楽しんでいただきたいです。各県の知事さん方は、地元の空港をもり立てたいという気持ちがあって、その気持ちは分かりますが、東北全体の海外に対する需要を考えると、仙台空港のポテンシャルが一番高いので、ここに国際便を集中していただいて、東北の各空港の役割分担をしていかないと意味がないのではないかなと思います。
松井 市長は就任時より「市民協働」というものを大事にされてきたと思います。地域団体、市民活動団体、企業など、まちづくりの主体がそれぞれの持っている特徴を生かしながら、まちの発展を目指していく考えだと思いますが、これからのまちづくりの在り方とはどんなものでしょうか。
奥山 市民協働の中でもボランティアやNPOというものは、これからも続いていくと思いますが、それに加えてこの震災で一番大きく社会的にアピールされたのは、企業による社会貢献活動だと思います。仙台にたくさんの企業があって、今までもいろいろな地域活動をしていただいていましたが、社業を通じて地域に貢献する企業さんをもっと我々も褒めて広く市民の方にご紹介していきたいと思っています。それを表彰する制度として、仙台中小企業活性化条例に基づいて、「四方良し」企業大賞を仙台として作りました。実際そういう考えをもっていただいている企業は多くなってきていて、仙台はこのボランタリーな、企業からいえば利益だけではない公益に向かって活動するということが、見えやすいし応援しやすい街なのではと思います。震災によってさらにそれが、合意が形成されて動き出しやすい状況になっていると思います。
松井 企業が利益だけを追い求めるのではなく、本業を通じた社会貢献を行っていくことは、会社に目に見えない資本を蓄積させ、会社と地域の経済循環を活性化させることに繋がると思います。ポイントはこの「本業を通じた」という部分であり、無理なく定期的に行うことが大事だと思います。仙台は地元志向の企業が多いでしょうから、この輪が広がれば、新しい形の街のロールモデルになっていそうな気がしますね。
奥山 そういうことを暮らしながら若い世代の方にもわかっていただいて、こういう街で暮らせるのは幸せだとか、こういう街で子どもを育てて、子どもにもこの街で暮らして行って欲しいとか、素直に思えるような街にしていければよいと思います。
松井 そうですね。これからの時代を担う若者が仙台で働きたい、と思うような環境作りも私たちの担いだと思っています。
奥山 JCの活動は、ここで何か達成するということも大事なのだと思いますが、その中でたくさんの仲間に会って、様々な課題に対して意見を出し合ったり、例えば行政とぶつかるとか、難しさを感じたり、そういうこと自体が広い意味では今生きている社会に対する実際の学びの場だと思います。JCというある種の学校に1年間留学しているようなものかなと思って、大変かもしれないけれど、でもその留学したことの意味というのは、5年後10年後ぐらいにじわっとでてくる漢方薬みたいなものではないかと感じます。東北にはJCの活動がたくさんあると思いますが、やはり一番人材 がたくさんいて中心になれる人が集まってくるのが仙台だと思いますので、仙台青年会議所が鋭い問題意識を持ち続ければ、東北全体にも良い影響があると思います。
松井 奥山市長、ありがとうございました。これからも私たちはこのまちで生きる青年経済人として、このまちがもっと良くなるように青年らしい活動をしていきたいと考えています。
仙台創生
「情報発信でのターゲッティングの重要性」
6月号では日本最大の朝市である八戸の「舘鼻岸壁朝市」、7月号では東北の暮らしぶりにまつわるツアーを2つほど紹介しましたが、どれもその地の人々にとってみれば身近で当たり前の光景。しかし身近過ぎて灯台下暗し。外から見ればその当たり前の光景が世界を魅了する可能性があったりします。ただ、どうやって世界中の人々に知ってもらえば良いのでしょうか。8月号では情報発信についてのお話です。
皆さんはYouTuber(ユーチューバー)をご存じでしょうか。YouTuberとはグーグルが運営する動画サイトYouTube(ユーチューブ)において数分~数十分の動画を投稿し、視聴者の数に応じた広告収入を得ている人達のことです。ある調査によると中学生のなりたい職業第2位にもなったYouTuber。当社にはクリスという当社専属のイギリス人YouTuberがいます。
山形県酒田市で英語を教えていたクリスが日本の田舎暮らしを友人や親戚に伝えるため、趣味で始めたYouTubeは瞬く間に世界中で注目され、50万人を超える購読者(ファンのようなもの)がいます。現在は拠点を仙台に移し、東北の隠れた観光スポットを発信し続けており、過去1年間の再生回数は1000万回を超えます。
クリスは英語で動画を制作しているため(日本語字幕付)か、視聴者の約30%がアメリカ人、その後にイギリス人が15%、オーストラリア人が11%と続きます。また20代~30代が全体の視聴者の80%を占め、70%が男性です。
そのためか、美しい景色や文化より、肉やラーメンなどの食べ物や、動物をテーマにした動画に人気が集中し、時には100万回を超える再生回数を記録することもあります。
ここで皆さんにお伝えしたいのが、ターゲッティングの重要性です。ターゲッティングとは「どんな人に来てほしいのかを決めること」。情報発信を行う際、誰でもいいからとにかく外国人に来て欲しい・・。ではなく具体的に、国籍はもちろん、年齢、性別、来日頻度、趣味など細かく決めていきます。このような人物像のことを「ペルソナ」といいます。例えばクリスの動画は以下のようなペルソナに有効です。
「ジェームズ君。イリノイ州にある田舎町在住のアメリカ人。33歳独身。職業はITエンジニア。日本には同じく日本好きな彼女と既に5回ほど行ったことがある。東京、大阪、京都、北海道、飛騨高山などには行ったことがあるが、もっと深く日本のことを知りたい。好きな食べ物はすき焼き」。
上記のジェームズ君のようなペルソナにはクリスの動画はとても響くでしょう。そしてクリスの動画をきっかけに来日をする可能性があります。ただし、ペルソナが下記のような場合はどうでしょうか。
「ジュリアさん。イギリス人女性。40代独身。大企業で経理課に勤務。趣味はアジアの古美術品収集。来日回数は2回。来日の度に京都を訪れ、茶器や陶器などの購入のために毎回20万円以上は使っている。好きな食べ物はわらびもち。最近は健康に気を遣っていてお肉はあまり食べない。」
クリスの視聴者層と全く違うため、動画を見ても興味を示してくれないでしょうし、そもそも動画を最後まで見ないかもしれません。ターゲッティングをしっかりと行い、設定したペルソナに適した情報発信方法を選択することが地域への誘客の成功の鍵です。
株式会社ライフブリッジ 代表取締役 櫻井 亮太郎氏
1973年宮城県生まれ
アメリカ ワシントン州シアトル Roosevelt High School卒業(高校)、イギリス ロンドン Richmond University, International Business学科卒業(大学)、ドイツ ミュンヘンの語学学校をへて、現地IT関連企業、三井物産ドイツ支店へのサポート・エンジニアとして就労し、1999年にオーストラリア、シドニーでワーキングホリデーを活用しソフトウェア開発会社のヘルプデスクとして就労。
帰国後、2000年-2004年バークレイズ・グローバル・インベスターズ信託銀行マーケットデータサービスエンジニア、2004年-2006年ドレスナー・クラインオート・ワッサースタイン証券会社にてマーケットデータサービスエンジニアを務める。
2006年株式会社ライフブリッジ設立(宮城県仙台市)。
2009年「日本人による日本人のための英語塾」開設。
現在は、最短2日間で英語接客がマスターできる「外国人おもてなし講座」の他、7カ国語での翻訳、世界17カ国への留学斡旋の他、企業とグローバル人材をつなぐ人材紹介業務を行っている。
本業を通じて仙台を支えるJAYCEE
〜茶道を通じて日本のこころを世界へ〜
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弊社の創業は、文化8年(1811年)。初代八右衛門は刀剣の傍ら骨董も扱い旧本材木町に屋敷をかまえておりました。次男源兵衛が2代目を継ぎ骨董専一に精を出し、その後、氏名の頭文字を取り金源(かねげん)さんと呼ばれていたあだ名が、いつしか屋号となりました。
私で6代目になりますが、先人がそれぞれの時代背景に対応しながらも一貫して日本の伝統文化・工芸をこころから愛してきたことに私は感銘し、新たな価値を見出して、次代へ繋げたいと考えております。今は先代より力を入れてきた茶道具が主軸となっているため、私も大学生の頃より裏千家の門をたたき入門しました。
茶道は一碗のお茶を通じ、おもてなしのこころを育み、相手を思いやる精神と日本人としての美しい所作やマナー、美意識を高めます。また、茶道の道具は日本の様々な伝統工芸を使用し、日本の総合芸術にも触れることができます。私は、日本人として必要な要素を兼ね備えている茶道を、多くの方に知っていただきたく、裏千家淡交会の青年部を中心に様々な活動に携わっております。活動の中で特に思い出に残っているのは、東日本大震災の時でした。発災から約1ヶ月後、一人の茶道部の大学生が来店し「私たちだからできるお茶を通じた支援をしたい」と相談を受けました。避難所で生活を送っている方々の不安な気持ちを少しでも和らげたい。そんな思いで色々な方に相談し、青年会議所のネットワークを駆使して宮城県内14か所、約2千人近い方々にお茶とお菓子を差し上げました。皆様から「ホッとしました」「精神的な疲労がピークに達していましたが気持ちが和みました」などと、沢山の感謝のお言葉を頂戴しました。
また、茶道を通じて日本の伝統文化を海外に発信しています。裏千家の青年部では日中友好40周年の文化交流において中国の長春や台湾に行き、日本語学科を選考している学生などと交流しました。また青年会議所関係では、姉妹青年会議所の海外の方が来仙された時などに弊社茶室にて一服差し上げたりしております。最近はそれらのご縁や経験をもとに、茶道を通じた和のこころを体験していただきながら、文化交流、相互理解を深められるように幅広く活動しております。
さらにいじめが多い実情がありますので、今後は子どもたちに茶道や論語を通じて思いやりのある豊かな人間形成、和敬清寂の精神を積極的に伝えていきたいです。また、海外の方に向けて本業を通じて、仙台、宮城、東北の特徴を活かした日本の文化を体験できるディープな観光パッケージを作るのが私の夢です。将来、茶道が文化交流を基軸とした民間外交の一助となれればと思い活動を続けて参ります。
・プロフィール
有限会社金源堂 取締役
1976年仙台市国分町にて生まれる。
仙台市立立町小学校・東北学院中学・高等学校を経て東北学院大学二部経済学部に入学。
大学卒業後、臨済宗京都大徳寺龍光院(りょうこういん)に数か月住み込み、2000年より入社し現在にいたる。仙台青年会議所には2008年に入会し、2015年に第64代理事長を務め翌年の2016年に卒業。茶道裏千家淡交会青年部全国委員、東北ブロック長、宮城青年部監事、そして東北学院中学・高等学校奨学会会長等を務める。
色のしかけから持つべきビジネスの視点
黒色は面白く、世代を表わす。あなたは黒色を真面目な色と思うか?もしも、そう思えたなら、あなたは就職氷河期世代以降の生まれだといえる。バブル世代にとって、黒色は真面目とは思わない。真面目な色は青色ではないかと感じる。なぜか。それはリクルートスーツの色が変わったからと言われる。かつては紺色が当たり前であったが、就職氷河期世代から黒色に変わった。同じ昭和生まれでも社会情勢が大きく変わった世代では、受け止める価値観も大きく変わる。リーダーが持つべき視点とは、時代の潮目、社会情勢の変わり目とともに、消費者の好みや趣向の変化も見抜かなければいけない。それには色の好みからもその情報を得ることができるというのを知っておくべきだ。
うえた さより プロフィール
集客コンサルタント、マーケティングプランナー
株式会社ローズ・ウェッジ 代表取締役
企業、自治体の集客に努める。コンサルティング、執筆、セミナー・講演業。集客に心理的アプローチを高めて売るという方法を生み出したのが特徴であり、これからの売りづらい時代に必要だと説いている。著書に「たった1秒の『イメージ色』で行列店に変わる」(経済界刊)がある。
仙台JCの歴史を紐解くー未来へ伝えるメッセージー
〜仙台七夕花火祭編〜
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私が子どもの頃から青春時代、七夕花火は切ない思い出が沢山詰まった祭でした。20歳の時に友人と半分ふざけて「人生計画書」なる物を書いていました。その中には30歳で仙台青年会議所に入会し、花火の実行委員長をすると記されていました。実際に入会したのは31歳の時、事務局長や事業系委員長を2回、ブロック運営専務や副理事長を歴任した後の卒業年度、やり残している20年前の人生計画、それが花火委員長でした。
委員会メンバー配属が決まり、はじめに祭りのテーマを「Be Happy !」に決定し、とにかく最初から最後まで、よく飲んで騒ぎました。その繰り返しの中で「05花火 鉄の結束」と言われるまでの絆が生まれ、今でも当時の仲間とは家族ぐるみの付き合いが継続していますし、SENDAI光のページェント実行委員会やロータリークラブ等でも共に活動しています。
私が委員長になって絶対にやりたかった事は、安定的な財源の確保、つまり有料観覧席の設置です。まずはその是非を確認すべく、何人もの歴代花火委員長の先輩方を訪れ、当時の思いや観覧席設置に対する意見を伺いました。試験的に花火を打ち上げ、どこが相応しい場所かも検討した結果、初の有料観覧席は市民プールと市民会館の外庭に決定。しかしリリースした直後から、市民の苦情が殺到。「仙台市の土地でJCが金を取って良いのか!」しかしそれも想定内、勿論すでに行政側から許可は得ていました。そして、観覧券は見事に即日完売でした。
企業協賛で前年度5万円以上の会社は私が全て訪問し、10万円以上協賛の場合は観覧席2名分贈呈作戦も功を奏し、大口協賛企業も増えました。協賛企業によるホームページのバナー広告を始めた年でもありました。
メッセージ花火では、55万人の観客の前でプロポーズをして、会場が温かい祝福の拍手に包まれたり、家族への感謝の思いを伝えた応募者もいました。
花火大会で発生する大量のゴミ問題にも着手しました。まずは会場周辺を禁煙にし、JTさんの御協力で喫煙場所を設置。これにも市民の反感が予想されましたが、仙台市民はマナーが良く、とても協力的でした。画期的だったのは、集積所のゴミを当日中にパッカー車で回収してもらえるようにした事でした。翌朝には、また元の綺麗な西公園と広瀬通りを実現できました。
JC卒業後、YEGやページェント実行委員会に属しながら、お互いのイベントをお互いが手伝っていくようにしました。どの団体も仙台を愛する志は同じです。結果、商工会議所の方に「松本さんは、どの祭に行っても必ずいますよね」とまで言われました。(笑)
そして数年後、七夕花火をそろそろ他団体の主催にしたらどうかという議論がJC現役メンバーから沸き起こり、OBと現役が討論した例会がありました。賛成と反対に意見が分かれ、結論に困ったのか、進行役だった当時の理事長は、「それでは最後のまとめを松本先輩にお願いします」と突然ふってきました。その時に私が話したのは「七夕花火こそ仙台JCの魂」その一言でした。
あれから12年、委員長だったから、こうして私が取材をされていますが、私が20年間思い描いた花火祭りを実現してくれたのは、委員会メンバーなのです。各部会が完璧に各々の役割をこなしてくれました。50歳になるまでの10年間、私個人的には、まさに激動の10年でした。そんな私をいつも励ましてくれたのは、当時の仲間達、そしてそのシンボルである「松本組」のハッピです。
JC卒業式、私はこっそり用意してきた組ハッピを着て登壇すると、目に入ったのは、会場の最前列を陣取り、同じハッピを着た仲間達の姿でした。本当に感動して涙が止まりませんでしたね。
地下鉄東西線が完成し、打ち上げ場所も移り、養生費用も嵩み、今では当時の倍近くの事業費になっていると聞いています。あの時、有料観覧席という財源確保に取り組み、以降の開催に少しは寄与できたのかなと思います。
今年で48回目となる七夕花火、仙台を思いやる「やさしい」心と未来へ継承する「強さ」を実現できるよう 花火好きの一人として心から願っています。
松本 信一氏
公益社団法人仙台青年会議所
2005年度 七夕花火祭特別委員会 特別委員長
松本事務機株式会社 代表取締役社長
協賛各社
仙台画像検診クリニック パルいずみ Fit Lab YOUTH 株式会社アクティブコーポレイション ichinoi ビーエッチ株式会社 坂部印刷株式会社 株式会社ナイスクリーン 運龍堂